この記事では、週刊少年ジャンプ2025年18号に掲載された「あかね噺」の第152席「彼の真意」の感想と考察を書いて行こうと思います!
前回の振り返りは下の記事になります!
あかねからの稽古の申し出を断る椿屋正明。それを理解してもらうには芸で示すのが早いと高座に向かう際、ついでに時間を計って欲しいとあかねに時計を渡します。2人の事が心配でと八正師匠が弥栄亭に来てくれて…。
さて、正明師匠の真意とは?
理路刻々 椿屋正明
時計を手に正明師匠の高座を見守るあかねに、八正師匠が併せて見るといいとスマートフォンを手渡します。その画面には、今日の演目である「吝い屋」について事細かく説明するものでした。
出典:あかね噺|末永祐樹 馬上鷹将|集英社
「高座開始」まで22秒から始まり、1分34秒で「大ウケ」などと時間割が決められているのです。そして、それら全てが寸分の狂いなく正明師匠の高座で展開されるんですね。
本来ならあり得ないと八正師匠は言います。
笑いは水物であり、伸るか反るかはお客次第ですから滑稽噺のキモは空気を掴む‟柔軟性”こそが大切。一言一句決め込むなんて悪手であるハズなのです。それでも正明師匠の‟決めごと”通りに進むのには理由がありました。
- 精密な見通し
- 常軌を逸する拘り
- 寄席の熱に浮かされぬ‟静心”
これらを基に寸分違わぬ‟作品”を綴る椿屋の最高傑作!
出典:あかね噺|末永祐樹 馬上鷹将|集英社
椿屋正明師匠の異名は「理路刻々」でした!
時間を計るように言われた事と‟決めごと”という言葉から、キチンと時間通りに演目が展開するだろう事は予想しておりました。しかし、どこで「大ウケ」か「中ウケ」かとまでお客さんのウケ方まで決まっていたとは。
正明師匠の真意
出典:あかね噺|末永祐樹 馬上鷹将|集英社
おそらく正明師匠が指摘して来るだろう事は、あかねが「あくび指南」に体調不良をギャグ(くすぐり)として差し込んだところでしょうね。かつて八正師匠が「山号寺号」に加えたアレンジを指摘したように。
正明師匠はそういう事をしない。これが、あかねからの‟死神”の稽古の申し出を断る理由になっているのかも。落語家としてのスタイルの違いを持ち出すのか、他にも理由があるのか…。
今回の正明師匠の高座というのは、あかねがフランス修行でしていた事に似た部分があるんですよね。言葉が通じないフランスにおいては、スクリーンに映した字幕とタイミングを合わす必要がありました。
これをあかねは ‟制限(縛り)”とし、日本に帰国して初めての高座では「字幕付きじゃ出来ない芸当」という自由な落語の世界を描き出した。しかし正明師匠はそれを至高の芸にまで昇華させているワケです。
ここに大きな違いがありそう。
引き算の美学
あかねと正明師匠では落語家として大きな違いがあるんでしょうけどね。あかねが正明師匠に稽古をつけて欲しいのは「死神」です。そして、あかねは志ぐま師匠の「死神」を見ています。
その志ぐま師匠の高座で出て来たもの。
それが「引き算の美学」であります!
出典:あかね噺|末永祐樹 馬上鷹将|集英社
噺に‟仁”や‟くすぐり”といった色を足す落語家が多い中、志ぐま師匠はその真逆の「引き算の美学」でお客さんを演目の世界に深く引き込んでいたんですよね。あかねはこれを学んでいるハズなんです。
志ぐま師匠が「死神」を教わったのは先代の正明師匠。今の正明師匠の父親ですね。もしかすると、志ぐま師匠は習った通りの「死神」を演じていたのかもしれません。自身の‟仁”も‟くすぐり”も加えていない。
あかねが極めたい「死神」というのもそれと同じなら、もはや正明師匠に断る理由はなくなりそうなんですよね。正明師匠の方こそ、昨日の高座であかねの事を勘違いをしてしまっていたりするのかな?
どうなんだろう。
志ぐま師匠はあかねに「引き算の美学」とその極致を見せているんですね。それも「死神」という演目にて。ここが突破口になりそうなんだけど、あかねがそれに気づけているかどうかになるのかな。
まとめ
正明師匠の高座、かなり笑わせられました。「十年は持つ」のあの顔はダメだ!反則級の面白さがありますね。さすがは大看板というのをちゃんと描ける画力。凄いよなぁ。
- 稽古の申し出を断った正明師匠の真意
- 正明師匠は爆笑派ではなく作品派
- 全ては正明師匠の‟決めごと”通りに進む
- 志ぐま師匠の「引き算の美学」がポイント
次回はあかねがその真意に気づき、って感じなのかな?
次号はセンターカラーです!
ありがとうございました!!
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