【あかね噺 第167席の感想と考察】阿良川ひかるが辿り着いた至高の高座!浮き彫りになった課題とは!?

あかね噺 第167席 扉絵 あかね噺

この記事では、週刊少年ジャンプ2025年34号に掲載された「あかね噺」の第167席「差し出す覚悟」の感想と考察を書いて行こうと思います!

前回の振り返りは下の記事になります!

ひかるにとっての原動力はいつだって‟怒り”だった──。怒りを原動力に自己研鑽に励んで来た彼女が手にした‟華”。その燃え盛る情念が阿良川ひかるを煌めかせるのであった!

てっきり今回の前半で「番町の皿屋敷」のオチが描かれ、審査に入って正明師匠の所でヒキって感じかな?と予想していたんです。その予想は外れ、ひかるの高座の最終局面が描かれる事になりました。

さらに彼女がこれまでどう落語と向き合って来たかが説明され、その至高の芸は大盛況で幕を閉じるんですね。素晴らしかったと思います。しかし、1つ浮かんだものがあったんです。

これじゃダメなんじゃないだろうか?  と。

全部差し出す覚悟

あかね噺 第167席 自身に対するコメントを目にする阿良川ひかる
出典:あかね噺|末永裕樹 馬上鷹将|集英社

それは扉絵で描かれた投稿についたコメントでしょうか。高良木ひかるについての評価はまず‟顔”なんですね。演技についても評価してくれていますが、やっぱりオマケといった感じ。一番に容姿です。

それを目にし、実力を評価して欲しいと挑んだのが落語であって「可楽杯」だった。‟顔”よりも‟実力”を見て欲しい。そうやってやって来た阿良川ひかるが自らの容姿を芸に昇華させるんですね!

それが「全部差し出す覚悟」であります。

この覚悟をひかるは持つに至った!

勝負に勝ちたい、また原動力として来た‟怒り”という「内に募る想い」。イコール‟情念”ですね。そに加えて「自らの容姿」すらも芸に昇華してこそ道化者。一剣師匠はとても評価しております。

問題は審査員長の椿家正明師匠の評価です。

正明師匠の講評は…!?

前回の記事でも書いたんですが、おそらく正明師匠も高得点を出すと予想します。ここは変わりません。90点は出すんじゃないかと予想しています。

しかし重要なのは控えている三明亭からしと阿良川あかねとの得点差なんですよ。正明師匠はどういう風に優劣を判断するのか。ひかるが下回るとすれば、彼女の高座は何が劣っているのか。何がダメで何が足りないのか。

こう考えると、これから正明師匠が何を基準に3人の高座を評価するか分かって来るような気がするんです。出場者は6人ですが、あかね・ひかる・からしの3人に絞って良いと思います。

正明師匠が3人の何を見るか考えるに、

あかね噺 第149席 椿屋正明「彼女には‟見”が無い」
出典:あかね噺|末永裕樹 馬上鷹将|集英社

‟見”の有無なんだと思うんですね!

もう3人は‟二ツ目”としては至高の域に達していると判断すると思うんです。その中で優劣をつけるとすれば、その上の段階(真打)に手が届きうるかどうか。ここで評価を分けるしかないような気がするんですね。

そして‟見”の有無というのはハッキリ出ると考えます!

つまり3人の中で正明師匠に‟見”が有ると評価された者が優勝。そうでない者は低い点数をつけられる事になる。この展開にするような気がするんですね。

では、阿良川ひかるにはあるのか?

そういう見方で見るとですね。

あかね噺 第167席 一剣師匠「落語家らしくなったじゃない」
出典:あかね噺|末永裕樹 馬上鷹将|集英社

一剣師匠の「落語家らしくなったじゃない」という言葉が持つ意味なんですね。評価しているのは間違いないのでしょうが、ようやく落語家として「様になって来た」という風な感じなんですよ。

三明亭からしや阿良川あかねは‟その先”に行っているのかもしれない。そこを正明師匠に審査されると阿良川ひかるは勝てないワケですよね。ここがどうなるのか?って話なんですよね。

ただし、瑞雲大賞ですからね…

瑞雲大賞というのは二ツ目を対象にした賞レースですから、二ツ目として演目の出来が良ければ評価されるでしょうし。いくら正明師匠でも真打になりえるかどうかを審査基準に据えるかどうかは分からない。

だとしても3人の評価を分けるなら…

あかね噺 第156席 あかね「私には何が見えてない…?」
出典:あかね噺|末永裕樹 馬上鷹将|集英社

何が見えていないかで点を落とすしかなさそうな。

浮き彫りになった課題

まだ正明師匠の言う‟見”というのが何であるのか分からないんですね。それでも薄っすら分かるのが、‟見”が無ければ「作品派」とは言えないって事なんですよ。

あかねと正明師匠のやり取りからしてね。

あかねに‟見”があると正明師匠が評価する=「作品派」として認めます。こうなるハズなんですからね。作品(演目)の完成度と‟見”は密接な関係にありそう。

阿良川あかねにまだ見えていないのは「作品」であって、演目に対する理解度。まだ演目の中にある大事な何かが見えていない、掴めていない。だから‟見”が無いと言われてしまっていたのだと思うんです。

振り返って阿良川ひかるの高座はどうだったか。

あかね噺 第167席 阿良川ひかるの「お菊の皿」
出典:あかね噺|末永裕樹 馬上鷹将|集英社

客席には噺の世界が見えておらず、‟お菊”も見えていない。観客が魅せられているのは落語家「阿良川ひかる」でしかない。噺の情景と客席の状態が重なっていない?

こういう事になるのかなぁ。

自分が立ちすぎているって感じ。

「役の心情に寄り添う意識」という‟了見”というのが足りておらず、阿良川ひかるは‟お菊”を使って自己表現しているに過ぎない… だとかね。平たく言えば「作品」を見せられていないって事なんだけど。

可楽杯での阿良川あかねが凄かったのは、

あかね噺 第25席 高座から演者が消える
出典:あかね噺|末永裕樹 馬上鷹将|集英社

聞き手が噺の世界に集中するあまり演者の存在が消えたように感じさせた事なんですよね。これの先に‟見”というのがあって、阿良川ひかるの「お菊の皿」では感じられなかったって感じかなぁ。

ともかく、ここまでを見ていて思ったのが「演目よりも阿良川ひかる」というのが前面に出過ぎているんじゃないか?って事だったんですね。もっと「演目(=作品)」が前に来ないといけないような。

‟お菊”じゃなく「阿良川ひかるが演じる‟お菊”」になってる

しかし、仕方がないんですよね?

ひかるは自分の実力が認められたかったから。

声優としてアニメキャラに声を吹き込み、そのキャラと作品が評価されてもあまり喜べなかった。自分が評価されたと思えなかったから。それで演者としての力を試せる落語の道に入った。

作品よりも自分を前に出したいのは仕方ないのかも?

これまでを見て、ここが阿良川ひかるの課題として浮き彫りになったような気がするんですよね。展開を予想するに、ひかるはあかねに勝てないような気もしますしね。

果たして‟見”って何なんでしょうね?

まとめ

注目の得点は次回発表されそうです!

第167席の感想・考察まとめ
  • 高良木ひかるの評価は‟顔”ばかり
  • 阿良川ひかるの「全部差し出す覚悟」
  • 正明師匠の評価のポイントは‟見”の有無か
  • ひかるの高座は作品より自分が立ちすぎていた?

続きが楽しみです!!

ありがとうございました!!

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