この記事では、週刊少年ジャンプ2025年43号に掲載された「あかね噺」の第175席「至れるのかな?」の感想と考察を書いて行こうと思います!
前回の振り返りは下の記事になります!
阿良川ひかると三明亭からしの優勝候補2人の出番が終わった今、会場も視聴者もあとは消化試合だと思っている。その状況で出て行く事になった阿良川あかね。彼女はどんな答えを見つけたのか──。
あかねの高座がいよいよ始まります!
一剣師匠も聞いていた
大会前、あかねが一生師匠から「笑わせるな」と言われていたのを一剣師匠も聞いていたんですね。ちょうど通りがかったところで話が聞こえて来たって感じですね。
一生師匠の言葉を聞いて笑っています。
この時、笑わせるななんて… いくらなんでもとあかねが言い返していました(第157席)。すると「──ならいい」と一生師匠に言われてしまうのですが。ここまでセットで聞いていたのかどうか。
そこまでは分からないのですが、一剣師匠からすれば言葉の真意に気づけたかな?といった感じでしょうか。あかねの高座をスマホで視聴。紅茶とクッキーとはまたお洒落でございます。
一生師匠の言葉の真意
あかねによる「吝い屋」がスタート。
客席から笑いが起こり、ひかるもからしも泰そんも揃って驚きの表情。泰そんは早くも「全部取りに行く」が失敗に終わったと落胆の表情です。そんな中、からしだけは気持ち悪さを感じていた。
そして、
あかねが狙って笑わせたのではない事に気づくんですね。
一生師匠の言葉の真意とは「ありのままで魅せろ」という事。演者の味付けで笑わせるなって事だったんですね。古典は手を加えずとも客が笑えるように出来ているのだから、それで客が笑ったとしても構わない。
演者の作為で‟笑わせるな” って事だった。
ここにからしが気づくのも成程ですよね。深い古典への造詣。正明師匠から「古典に通ずる作品性を有していた」と言われるだけの擬古典を創作する彼だからこそ。
ただしコレで終わりじゃありません。
あかねにはまだ至らなければならない境地がある。
あかねが目を向けるべきもの
ラストであかねの背後に何かが浮かび上がる描写があります。それが正明師匠の‟見”の意味が込められているものと思われます。そして、あかねが目を向けるべきは── と。
これは何を示しているのか。
その前に瑞雲大賞の予選後、砂浜で月を見上げているシーンが描かれています。ここで「見がない」について何かに気づいているんですよね。見誤っていた事に気づいてる。
これが何を意味するのか?なのですが…
これまで彼女が見ていたのは観客であって。
笑わせるにしても笑わせないにしても観客ばかり見て来た。月を見るようにね。そうじゃなくて観客(月)から自分はどう見えているのか?と。ここに気づいたんじゃないかな。
「離見の見」ですね!
それは客観的に俯瞰して全体を見る力であって。世阿弥が説いた、観客から自分(演者)がどう見られているかを意識しなさいというもの。これが正明師匠の言う‟見”だったのではないか。
つまり、
あかねが目を向けるべきは自分自身だった?
すると背後に浮かび上がったのもあかね自身だろうか?
目は前を見ていても心は後ろに置いておく、みたいな。
これまでのあかねの高座は自己中心的な狭い見方しかできていなかった。目の前の観客だけ。それを月から地上を見るように、そして観客から自分がどう見えているかを捉える事でまた違った見方ができるようになる。
それによって作品世界の登場人物に自分を近づける事ができたりするのかな。前回の「無駄に遣うな」というのは、まさに落語世界の登場人物になり切っているんですよね。
あかねとマイク
今回よく分からないのが、どうもマイクにスポットを当てて描いているんですよ。あかねとマイクと言い替えても良さそうですかね。この演出がよく分からない。
ただし思い浮かぶものがあるにはある。
それが椿家八正師匠なんです。「マイクと座布団の間隔80cm」というものでした。これくらいしか思い浮かぶものなんてないんですが… それが今回の事と絡む話とも思えなくて。
どうしてマイクなんだろう?
気のせいかもしれませんけどね。
まとめ
それにしても一生師匠の言葉足らずには困ったものです。これに始まった事ではありませんけどね。まぁでもあかねは自分で答えを導き出しました。成長できたのは一生師匠のお陰とも言えるかも。
- 一生師匠の言葉を一剣師匠も聞いていた
- 客を笑わせたあかね
- 一生師匠の言葉の真意は「演者の作為で笑わせようとするな」
- あかねが目を向けるべきは自分自身?
- 正明師匠の‟見”とは「離見の見」か?
次回、どんな答えが待っているんでしょうね?
とても楽しみであります!
ありがとうございました!!
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