この記事では、週刊少年ジャンプ2025年46号に掲載された「あかね噺」の第178席「濾し澄ます」の感想と考察を書いて行こうと思います!
前回の振り返りは下の記事になります!
‟消える高座”の更に奥に至ったあかね。客席は日常から解き放し噺に浸る心地よさ── 夢うつつの中にいた。その一点のみ大看板に並び立つと一剣師匠は言う。独演会を前に一生師匠もあかねの高座を聴いて不敵な笑みを浮かべる。
いよいよ高座もクライマックスです。注目は正明師匠の反応!
濾し澄ます
サブタイトルの「濾し澄ます」とは、演目の作品性を高めるのに必要とされる事。1つは己すら俯瞰して技芸を研ぎ澄ます。そして「表現者としての我」というものを雑味と断じ、それを抜く。
こう正明師匠は言います。
全ては噺の良さを引き出すため。あかねはそれを見事にやってのけているんですね。第163席であかねが正明師匠に言っていた「落語だけに… なれましたよ」とは、濾し澄ます事ができましたよって意味合いだったワケです。
言に違わぬ(=言われた通りでしたね)と正明師匠。
では、あかねが‟作品派”を目指したとして「‟自由さ(持ち味)”を失うかもしれませんよ」(第153席)と言われていた件はどうなっているのか。ここもまた後で1つの焦点になって来るのかもしれません。
今までより深く噺に没入していた客席
「吝い屋」のラストは、ついに金持ちになる極意を教えてくれるシーンです。最後のオチを言う演目の登場人物が… あかねに戻ると言いましょうか。ここの演出も上手いなぁ。
それこそが正に客席が見ている光景。
あかねに誘われていた‟夢うつつ”から覚めているんですよね。あ、落語を聞いていたんだと客席が思い出すんですね。それでもまだ状況が把握しきれていません。呆気にとられたままです。
静まり返る客席にあかねがお辞儀。
そして立ち上がろうとした時になって万雷の拍手があかねを包み込む。拍手を忘れるほど尾を引く余韻。今までよりも一段深く噺に没入していた証左だと正明師匠が述べています。
圧巻ですね!
客席の代表者としての心理描写はひかるやからしが担い、解説役は一剣師匠や正明師匠が担うカタチになっていましたよね。それ以外はもう噺の世界にドップリ没入していて、何かを考えたりできなかった。
こういう事なんだと思うんですよね。
噺への没入や余韻で思い出されるのが志ぐま師匠なんですよね!
志ぐま師匠の「死神」では、高座が終わって‟幕が下がり切った後”で客席が拍手をしていました。「死神」は余韻が残るサゲではあるものの、それは凄まじいものでした。
あかねはまだ志ぐま師匠の域(警報音が鳴り響く中での高座)には到達していないのでしょうが、かなり近づいているのは分かります。
正明師匠に‟作品派”と認めさせる
客席の反応から、ひかるとからしには勝敗の行方が分かったのだと思われます。からしなんて「…だっる」と言いつつも嬉しそうにしています。次こそは、この強敵を倒してやると先を見据えているんじゃないかな。
そして正明師匠もいつもの無表情ではなく、薄っすらと笑みを浮かべつつ「貴方自身も極意を掴んだようですね」と。それは演目の登場人物が金持ちの極意を掴んだように、あかねは‟作品派”の極意を掴んだって事。
しっかりと認めてくれたのがわかります。
さぁ次回は何点が出るかに注目です!
正明師匠は「ひかるに86点」で「からしに87点」でした。
あかねに88点は無いでしょ。90点は超えると思うんです。95点くらいつけないかなぁ。あとの2人は揃って100点をつけると考えています(笑
まとめ
あかねの高座は特に演出面がどれも素晴らしかったです。表現力と画力の2つがキッチリ絡み合っていて凄いとしか言いようがありませんでした。
- 作品性を高めるとは濾し澄ますこと
- 拍手を忘れるほど尾を引く余韻
- 今までより一段深く没入していた客席
- 作品派でもやれると認めた正明師匠
とにかく何点出るかですね!
ありがとうございました!!
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