この記事では、週刊少年ジャンプ2025年42号に掲載された「あかね噺」の第174席「無駄に遣うな」の感想と考察を書いて行こうと思います!
前回の振り返りは下の記事になります!

三明亭からしの得点は278点で現在1位。87点をつけた正明師匠は古典に通じる作品性を有していたと高評価。審査前の問答は認めているからこそ気になった部分だったのです。ライバル2人の高座が終わり、いよいよ阿良川あかねの登場です!
あかねのシンカとは一体何であるのか。
あとは消化試合
前日の予選で5位の結果に終わったあかね。裸足で海に足をつけていました(第162席)。その日は宿にも帰らず一晩中外にいたらしく、その為に体調不良を起こしていたんですね。その日は7月8日。
夏風邪ですかね。
阿良川あかねの出番前のCM中、アシスタントのTVSKアナウンサー江取千秋がスタッフと話しております。あんな状態で出して大丈夫?と。嫌な感じの言い方ではありませんが、彼女の事だけじゃなく番組の心配もあるんでしょう。
聞かれたスタッフは優勝候補2人の出番も終わった事ですし、まぁ会場も視聴者もあとは消化試合だと分かっているだろうから… なんて事を言っております。行っちゃいましょうって感じ。
これは先の可楽杯の時もそうでしたね!
順番はからし→ひかるでしたが、その優勝候補2人の高座で満足したお客さんの前にあかねが出て行くというのは同じ。あの時も消化試合と言われていました(からし談)。
その会話を聞いていた泰そんが一言。
分かってねェなァ
枷だった
時間をさかのぼり、まだ調子が悪く救護室で横になっていたあかね。泰そんがついていてくれて、その時の2人の会話が描写されます。
泰そんから「何でそこまでやるんスか」と問われたあかね。それは、どうしてそこまで自分を追い詰める必要があるんですか?って事。するとあかねは「私には時間がないから」と言うんです。
それは志ぐま師匠の病状が関係しているんですね。
手術は成功。がんの転移もナシ。ここは良かった。ただ心因性による失語症の症状が出ていると。この治療に専念する為にも、志ぐま師匠は落語からは離れた方がいいだろうと言われている。
つまり、あかね(弟子であり落語家)は会いに行けない。
この事であかねが感じたのは「大切な人が変わらず傍にいてくれるのは」「当たり前じゃない」という事だったんですね。だから立ち止まっている暇なんてない=私には時間がない。
しかし、この事で分かった事がある。
あかねは「それが枷だった」という事が分かったんです。
では、「それ」とは何なのか。
志ぐま師匠が変わらず傍にいてくれるという考えですよね。これが阿良川あかねにとっての枷だったんです。そこに彼女は束縛されていたんです。
それは自分を独り立ちさせまいとする枷。
言うなれば‟甘え”ですよね!
志ぐま師匠がいてくれなくても落語家としてやって行かねばならない。導いてくれる者がいなければ進めないなどと思っているようじゃダメ。これに気づけたって事なんですよね。どうやら。
要らないの 私は
そうやって辿り着いた境地が「落語だけでいい」「要らないの 私は」というものであって。それが一生師匠と正明師匠の2人の言っている事の答えだった。こういう事らしいのです。
予選を前にして「自分を押し通す力」が必要だと考えていましたよね(第160席)。それが2人の言葉に対する答えであって。お客さんに合わせるんじゃない。大看板の師匠連ほど身勝手極まりないものだ。
そうじゃなかったんですよね。
自分(=私)なんて要らない。
落語だけでいい──
ここに思い至る事ができた。
無駄に遣うな
泰そんが冷えピタだとかポカリなどを買いに行こうとした時、「無駄に遣うな」という言葉が聞こえるのですが… それはまるで落語の世界に入ってしまったような、そんな感覚を泰そんが持つんですね。
これは「無駄に(気を)遣うな」って事なんだろうけど。
あかねが言っているんですよね。
泰そんに対して気を遣わなくて良いよって。
しかしですね、
おそらくですが「吝い屋」の演目の中に出て来るセリフなんだと思うんです。その演目の中でケチな誰かが「無駄に遣うな」というセリフがあるんじゃないかなぁと。
あかねのセリフ=落語の登場人物のセリフ
あかね=落語
あかねそのものが落語。
もはや演じるというレベルではなくて、あかねと落語(作品)が同一化している。もうここまでの境地に辿り着いてしまっているんじゃないかな?
だから私は要らないのであってですね。
一生師匠の「笑わせるな」というのは、
笑わせるという行為をするのは演者(私)であって、そういうのを消して勝って来いって事なんじゃないのかな。逆に笑わせなくする私も要らない。それも要らないんだとあかねは気づいたのかも。
あかねは客を笑わせようと「吝い屋」を演じはしない。お客さんも演じるあかねなど見ておらず、ただただ「吝い屋」の世界に入り込み、その登場人物のやり取りや会話に魅せられる。
それで笑っても構わないんじゃないかな?
だって、あかねは笑わせようといていないから。
そこまでの境地に至れば、最早あかねの持ち味を消すとかいうレベルではなくて。もうあかね自体が落語(作品)なのだから、作品派の正明師匠も何も言う事がない。
こういう事ではないだろうか?
もう洗練された表現力だとかそんなレベルじゃなくて。可楽杯の時のような演者(あかね)の姿が消えるなんてもんじゃなくて。会場がもう「吝い屋」の世界になってしまうんじゃないかな。
お客さんにその作品世界を体験させるのかも?
まとめ
つい先ほどまで欠伸をしたりしていたお客さんが、あかねが出て来た途端に食い入るように見ています。これはもう大看板レベルの技ですからね。会場の空気を一変させているのです。
あかねの視線が会場全てのお客さんに向いているんでしょうね。あかねはただ一瞥しているだけですが、その一瞬でもう会場全てに行き渡ってしまっている。そして引き込んだ!
ひかる&からしとはレベチなんですよ(汗
- 予選後 あかねは一晩中外にいて体調を崩した
- 会場は消化試合の雰囲気(可楽杯の時と同じ)
- 志ぐま師匠は失語症だった
- あかねの枷とは志ぐま師匠が変わらず傍にいてくれると考えていたこと
- 「無駄に遣うな」とは吝い屋の登場人物のセリフか?
- あかねと落語の同一化
あかねの高座、とっても楽しみですね!!
ありがとうございました!!
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